なるほどね。

北海道民独身男性の日常

季節にやたらと背を押され

今日のブログは確実にポエムになる。

こういう時は、書く前からなんとなくわかる。

 

朝になんとなく体調が悪く、大事を取って久々の有給である。

手持ち無沙汰な時、そぞろに書いたものは大抵ポエムになってしまう。

もともと感傷的な性格をしているせいもあるのかもしれない。

 

街は、すっかり秋の様相を呈している。

さすがにまだ紅葉はしていないが、騒がしい虫の声はもうしない。

空も随分高くなったように思う。

朝晩は、半袖で外に出られなくなった。

確実に季節が進んでいる。

自分が20代でいられる時間も、刻一刻と過ぎている。

 

どんどん加速していく体感時間の中で、人生を20代、30代とつい切り分けたくなる。

そうやってマイルストーンを置くことで、残された時間を慈しみたくなる。

根拠もなく若い今がずっと続きそうだと思っていたあの頃とは違う。

人生もまた、季節がゆっくりと移ろっている。

 

 

そうは言っても、まだ自分の人生は夏くらいだろう。

せいぜい夏が後半に差し掛かったあたりじゃないか。

きっと、季節に引きずられてセンチになっているだけだ。

30代がまるで人生の秋のように見えてしまうのは、きっとそのせいだ。

 

そう頭ではわかっていても、焦燥感が湧いてくる。

しかも、周囲の色々なことが思いがけず変わっていく。

本当に人生、何が起きるかなんてわからないものだ。

ここ数年は特にそう思う。

 

だからこそ、次の誕生日はいつも通り迎えたい。

節目を作って自分で自分を急かしても、良いことはないだろう。

将来のことを色々と考えるあまり、今の気持ちに嘘をつきたくはない。

 

これからやって来る秋を憂うよりも、実りの秋と期待する方が、ずっと良い。

秋の終わりに、ふと小春日和が訪れることだってあるだろう。

 

それにしても、美味しい柿が食べたいものだ。

旅の思い出

ありがたいもので、旅に出る毎に各方面のフォロワーから声がかかる。

3泊4日の旅のうち、まとまった一人の時間は浜離宮の庭園を眺めている時くらいだった。

楽しい仲間と一緒にうまい飯を食べたり、酒を飲んだり、くだらない話をしたり。

それがとても幸せなことなのだと、この歳にして思う。

 

高校を卒業するまでの私は、今以上に内向きな性格だった。

狭い交友関係、家と学校の往復の日々。

時折、友達と市内の体育館に行って卓球をするのが大冒険。

これといった趣味もなく、バイトも部活も何もしていなかった。

世間一般に「青春」と呼ばれる日々を、私は無為に過ごした。

 

転機は大学時代だった。

サークルに入り、夜のドライブやら合宿やら、行動の範囲はぐっと広がった。

高校時代の同級生や研究室を通じて、交友関係も少しずつ増えていった。

SNSを始めたのもこの頃だった。

男ばかりで毎日のようにバカ騒ぎをしていたが、とても素敵な思い出ばかりだ。

きっとあの頃が、私にとっての青春だったんだろうと思う。

 

社会に出てから2年位経った頃、Twitterの鍵を外した。

いつもサークルの友達が絡んでいた人がなんとなく気になったのがきっかけだ。

2桁だったフォロワーも、今では随分と増えた。

すっかり顔なじみのフォロワーも出来た。

旅行が趣味になり、行った先でオフ会をするようにもなった。

高校までの私では、ありえないことだったと思う。

 

 

この4日間は、遅咲きの青春のような楽しい日々だった。

年甲斐もなくバカな話で笑う度に、昔の自分も一緒に笑っていた、そんな気がする。

 

 

蛇足になるが、浜離宮恩賜庭園を一人で散策していた時の話を少し書いておきたい。

 

丁度梅園に差し掛かった頃に、私の前を老夫婦が歩いているのが見えた。

あの歳になっても連れ添って散歩できるなんて素敵だな、などと思いつつ後に続いた。

 

やがて老夫婦は庭園内の古い神社に向かった。

そこは旧稲生神社といって、廃止されたとはいえ趣のある佇まいが印象的だった。

老夫婦のうち、おじいさんは何か思う所があったのか、社をじっと眺め続ける。

おばあさんが近くの花畑へ向かったのと丁度入れ違いに、外国人の家族がやってきた。

若い夫婦と小さな女の子が、佇むおじいさんをよそに記念撮影を始める。

鳥居に手をついてポーズを決めたり、随分とやりたい放題である。

おじいさんもそれに気づいたらしく、居心地悪そうに境内から引き返してきた。

 

その姿を見て私は何とも言えない気持ちになり、気づけば鳥居へ向かっていた。

外国人家族の脇を抜けて鳥居の前で一礼し、境内に入っていく。

彼らの視線が一斉に注がれるのがわかった。

社の前で二礼二拍一礼し、鳥居まで引き返してまた一礼する。

その間、外国人の家族はじっとこちらを見つめるばかりだった。

「俺はなんでこんなことをしているんだ」と後悔にかられつつ、そそくさと立ち去る。

ふと花畑の方を見ると、老夫婦と目が遭った。

おじいさんの目が、笑っている。

 

照れくさくなって後ろを振り返ると、なんと外国人の女の子が、神社に礼をしていた。

ご両親もその様子を微笑ましく見守っていて、むやみに写真を撮る様子もない。

意味もわからず見よう見まねだったのだろうが、その光景に私は救われた気がした。

 

その後立ち寄った花畑のキバナコスモスは、ずいぶんと綺麗に見えた。

言葉の遣い方

同じことを伝えるにも、色々な言い方ができる。

簡潔に、相手の立場を考えた伝え方ができればいいが、なかなか難しいものだ。

普段仕事をしたり、お店に入ったりすると新しい表現の仕方に出会う機会が多い。

「ああ、あんな表現の仕方もあるんだ」と参考にすることも多い。

それと同時に、「どうしてあんな言い方をするんだろう」と思うこともある。

 

私が一番苦手なのは、自分の意見をさも世間の常識のごとく表現する言い回しだ。

「社会では〜」

「常識的に考えて〜」

「人として〜」

「〜するのが筋だろう」

といった表現は、「あなたが社会的に間違っている」と糾弾する響きを持つ。

こんな言われ方をすると、「そうか、この人の思う"社会"ではそうなんだ」と思う。

いわば、主観的な社会通念の押し付けというべき表現だ。

下手に言い返しても疲れるので、大抵は「申し訳ございません」と言っておく。

それで場は治るが、しかしどことなく後味がモヤモヤとする。

「〜しないとこういう理由で困るので、次から気をつけて」で済む話なのだが。

そんなわけで、私は出来る限り上に挙げたような言い方をしないよう気をつけている。

 

ただ、言葉というのは難しいものだ。

意図した通りに伝わらないことも多い。

知らないうちに、相手にイヤな思いをさせていることもきっとあるのだろう。

それをいちいち気にしていてもしょうがないのだが。

そう考えると、嫌味な言い方をされても気にしないのが一番なのだろうか。

そうして少しずつ、見た目上の感受性を失っていくのが、大人になるということか。

なんだかそれも少し、寂しい話だと思う。

車窓

列車に乗るのが好きだ。

 

取り立てて鉄オタだとか、そういうことではない。

車窓を流れる景色に入り混じるものに興味がある。

それは人々の生活とか、季節の移ろいとか様々だ。

 

例えば春なら、田んぼに水を張り始める様子。

ミズバショウフクジュソウが咲き始める様子。

山々を若い緑が覆ってゆく様子。

 

街中なら家々の庭だとか、行き交う人や車だとか。

初めての街なら、どんなものも新鮮に映る。

久々の来訪なら、変化に気づくこともある。

いつの間にか店が出来たり無くなったり。

古いビルが洒落た建物に一変していたり。

時間帯によっても、街は表情をガラリと変える。

夜景の灯りひとつひとつに誰かの生活が宿る。

それを次々と眺めるだけで楽しい。

 

車を運転しながら景色に気を遣るのは難しい。

この様な楽しみ方は列車ならではのものだろう。

あちらこちらで鉄道の廃止が囁かれる時代だ。

ローカル線の旅に出るのは、きっと早い方が良い。

 

年度の終わり、年度の始まり

2016年度が終わりを迎えようとしている。

 

自分の仕事が変わる。

職場の顔ぶれも変わる。

 

1年の始まりよりも、個人的には年度の変わり目が一番「年明け」を感じる。

正月明けに出勤しても、代わり映えのしないメンツで同じ仕事が始まるのだが。

ここ最近は客先を含めてどこも慌ただしい空気に包まれている。

 

変化というのは、いい変化もあれば悪い変化もある。

巷で言う所の「期待と不安で胸がいっぱい」という表現はそういう様を指すのだろう。

人間なかなか難しいもので、こういう時はどうしても悪い方へ悪い方へと考えが向く。

未来のことなんて1秒先ですら読めないことだってある。

だから考えたところで所詮空想の域を出ることはないのだが。

それでも「もしかして」「あるいは」「ひょっとして」と不安が顔を覗かせるものだ。

そうしてあんまり不安になっていると、空想がやがて現実になる。

「きっとこうなるに違いない」という地獄を避けられない未来と思い込んでしまう。

そうやって知らぬうちにうつ病になっていたりするわけだ。

 

未知のものに心を揺さぶられることは、なにも未来のことばかりではない。

世の中わからないことだらけだ。

自分の未来、他人の気持ち、自分が属するコミュニティの将来。

そういう未知の要素に心を乱されることは往々にしてある。

そんなものをああだこうだと考えていたってキリがない。

だから将来のことは「なんとかなる」、人の気持ちは「知ったこっちゃない」で良い。

それは決して思考停止や逃げではない。

思考のキャパシティを現在の自分に振り向けるだけだ。

 

それにしても、次年度は本当に大丈夫なのだろうか。

こんなに自己暗示をかけていても、ぼんやりとした不安はそう簡単に消えてくれない。

ぜひとも、なんとかなってほしいものだ。

2017年

2017年になった。

だんだんと歳を重ねることすらルーティンワークのようになってきた。

大きな病気でもしないかぎり、これから先ずっとこんな調子なのか。

退屈だ。

とても幸福なことだとは思うけれど。

 

今の仕事もとうとう6年目だ。

だいぶん慣れてきたこともあって、心にゆとりもできてきた。

だから余計に退屈になって来たのかもしれない。

 

何か娯楽でも見つけようかと思うのだがなかなか難しい。

最近はアニメもそんなに見なくなった。

身体もだんだん言うことを聞かなくなってきた。

爺さんが盆栽を始める気持ちがなんとなくわかる。

でも盆栽なんてマメな趣味、俺には無理だなぁ。

 

娯楽といえば、旅行に行くのはとてもいい刺激になると思う。

お金はどんどん飛んで行くが、たまにはお金も使ってやらなければ。

目的もなく知らない街をぶらぶらするのは楽しい。

ふらっと入った店で美味しい食事に出会ったりするのも良いものだ。

 

人生に意味とか目的とか、そう言うものを求めればいつか心が壊れる。

あてのない旅行のようにぶらつくくらいがちょうどいい。

雪の降る街を

誰も歩いていない夜の街はいい。

 

ちっとも浮かれた雰囲気のない暗い道を歩いてポストに年賀状を投函してきた。

辺りは静まり返っていて、いつもと何も変わらない。

なんとなくワイワイしている中年の集団がセイコーマートにいたものの。

しかしそんなのはこの時期じゃなくても見かけるだろう。

 

コンビニで晩飯を買って寒い帰り道を早足で歩きながら思う。

結局、世の中はいつも通りだった。

今夜が聖夜であることを意識しているのは、むしろ自分の方じゃないのか。

いつも見ないふりをしている寂しさの重みをふと感じてしまっただけじゃないのか。

誰に誤魔化すでもないのに乾いた笑いが浮かぶ。

 

今日もコンビニの飯は可もなく不可もなく腹を満たした。