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なるほどね。

北海道民独身男性の日常

言葉の遣い方

同じことを伝えるにも、色々な言い方ができる。

簡潔に、相手の立場を考えた伝え方ができればいいが、なかなか難しいものだ。

普段仕事をしたり、お店に入ったりすると新しい表現の仕方に出会う機会が多い。

「ああ、あんな表現の仕方もあるんだ」と参考にすることも多い。

それと同時に、「どうしてあんな言い方をするんだろう」と思うこともある。

 

私が一番苦手なのは、自分の意見をさも世間の常識のごとく表現する言い回しだ。

「社会では〜」

「常識的に考えて〜」

「人として〜」

「〜するのが筋だろう」

といった表現は、「あなたが社会的に間違っている」と糾弾する響きを持つ。

こんな言われ方をすると、「そうか、この人の思う"社会"ではそうなんだ」と思う。

いわば、主観的な社会通念の押し付けというべき表現だ。

下手に言い返しても疲れるので、大抵は「申し訳ございません」と言っておく。

それで場は治るが、しかしどことなく後味がモヤモヤとする。

「〜しないとこういう理由で困るので、次から気をつけて」で済む話なのだが。

そんなわけで、私は出来る限り上に挙げたような言い方をしないよう気をつけている。

 

ただ、言葉というのは難しいものだ。

意図した通りに伝わらないことも多い。

知らないうちに、相手にイヤな思いをさせていることもきっとあるのだろう。

それをいちいち気にしていてもしょうがないのだが。

そう考えると、嫌味な言い方をされても気にしないのが一番なのだろうか。

そうして少しずつ、見た目上の感受性を失っていくのが、大人になるということか。

なんだかそれも少し、寂しい話だと思う。

車窓

列車に乗るのが好きだ。

 

取り立てて鉄オタだとか、そういうことではない。

車窓を流れる景色に入り混じるものに興味がある。

それは人々の生活とか、季節の移ろいとか様々だ。

 

例えば春なら、田んぼに水を張り始める様子。

ミズバショウフクジュソウが咲き始める様子。

山々を若い緑が覆ってゆく様子。

 

街中なら家々の庭だとか、行き交う人や車だとか。

初めての街なら、どんなものも新鮮に映る。

久々の来訪なら、変化に気づくこともある。

いつの間にか店が出来たり無くなったり。

古いビルが洒落た建物に一変していたり。

時間帯によっても、街は表情をガラリと変える。

夜景の灯りひとつひとつに誰かの生活が宿る。

それを次々と眺めるだけで楽しい。

 

車を運転しながら景色に気を遣るのは難しい。

この様な楽しみ方は列車ならではのものだろう。

あちらこちらで鉄道の廃止が囁かれる時代だ。

ローカル線の旅に出るのは、きっと早い方が良い。

 

年度の終わり、年度の始まり

2016年度が終わりを迎えようとしている。

 

自分の仕事が変わる。

職場の顔ぶれも変わる。

 

1年の始まりよりも、個人的には年度の変わり目が一番「年明け」を感じる。

正月明けに出勤しても、代わり映えのしないメンツで同じ仕事が始まるのだが。

ここ最近は客先を含めてどこも慌ただしい空気に包まれている。

 

変化というのは、いい変化もあれば悪い変化もある。

巷で言う所の「期待と不安で胸がいっぱい」という表現はそういう様を指すのだろう。

人間なかなか難しいもので、こういう時はどうしても悪い方へ悪い方へと考えが向く。

未来のことなんて1秒先ですら読めないことだってある。

だから考えたところで所詮空想の域を出ることはないのだが。

それでも「もしかして」「あるいは」「ひょっとして」と不安が顔を覗かせるものだ。

そうしてあんまり不安になっていると、空想がやがて現実になる。

「きっとこうなるに違いない」という地獄を避けられない未来と思い込んでしまう。

そうやって知らぬうちにうつ病になっていたりするわけだ。

 

未知のものに心を揺さぶられることは、なにも未来のことばかりではない。

世の中わからないことだらけだ。

自分の未来、他人の気持ち、自分が属するコミュニティの将来。

そういう未知の要素に心を乱されることは往々にしてある。

そんなものをああだこうだと考えていたってキリがない。

だから将来のことは「なんとかなる」、人の気持ちは「知ったこっちゃない」で良い。

それは決して思考停止や逃げではない。

思考のキャパシティを現在の自分に振り向けるだけだ。

 

それにしても、次年度は本当に大丈夫なのだろうか。

こんなに自己暗示をかけていても、ぼんやりとした不安はそう簡単に消えてくれない。

ぜひとも、なんとかなってほしいものだ。

2017年

2017年になった。

だんだんと歳を重ねることすらルーティンワークのようになってきた。

大きな病気でもしないかぎり、これから先ずっとこんな調子なのか。

退屈だ。

とても幸福なことだとは思うけれど。

 

今の仕事もとうとう6年目だ。

だいぶん慣れてきたこともあって、心にゆとりもできてきた。

だから余計に退屈になって来たのかもしれない。

 

何か娯楽でも見つけようかと思うのだがなかなか難しい。

最近はアニメもそんなに見なくなった。

身体もだんだん言うことを聞かなくなってきた。

爺さんが盆栽を始める気持ちがなんとなくわかる。

でも盆栽なんてマメな趣味、俺には無理だなぁ。

 

娯楽といえば、旅行に行くのはとてもいい刺激になると思う。

お金はどんどん飛んで行くが、たまにはお金も使ってやらなければ。

目的もなく知らない街をぶらぶらするのは楽しい。

ふらっと入った店で美味しい食事に出会ったりするのも良いものだ。

 

人生に意味とか目的とか、そう言うものを求めればいつか心が壊れる。

あてのない旅行のようにぶらつくくらいがちょうどいい。

雪の降る街を

誰も歩いていない夜の街はいい。

 

ちっとも浮かれた雰囲気のない暗い道を歩いてポストに年賀状を投函してきた。

辺りは静まり返っていて、いつもと何も変わらない。

なんとなくワイワイしている中年の集団がセイコーマートにいたものの。

しかしそんなのはこの時期じゃなくても見かけるだろう。

 

コンビニで晩飯を買って寒い帰り道を早足で歩きながら思う。

結局、世の中はいつも通りだった。

今夜が聖夜であることを意識しているのは、むしろ自分の方じゃないのか。

いつも見ないふりをしている寂しさの重みをふと感じてしまっただけじゃないのか。

誰に誤魔化すでもないのに乾いた笑いが浮かぶ。

 

今日もコンビニの飯は可もなく不可もなく腹を満たした。

耳掃除

人によって、色々な性質の耳垢があるらしい。

湿っぽい粘性のものもあれば、粉のようにパラパラしたものまで様々のようだ。

私の耳垢は左右で全然違っていて、左は湿っていて右はカサカサしている。

湿った方の耳は、綿棒でクルクルしていると向こうからくっついてきて楽だ。

しかし、反対側の耳に行くとそうはいかない。

そこで最近はベビーオイルを含ませた綿棒を使うようにしている。

これが存外気持ちいい。

初めはカサカサした右耳のために始めたのだが、湿った耳垢にも有効なようだ。

耳掃除の後もスッキリするし、耳の中を痛めることもない。

耳の外側に残った油分は、最後にティッシュで軽くふき取ると気にならない。

微香性のオイルを使えば、ほのかに花の香りが漂って一層リラックスできる。

是非一度、お試しあれ。

知っていることと、わかっていること

常々、この2つには明確な違いがあると思っている。

 

知ってはいるが、わかっていないということは割とたくさんあるものだ。

例えば、晴れた昼間の空が青いのは誰だって知っている。

しかし、なぜ空が青いのかということを説明できる人はそれほど多くないだろう。

中には、詩的な答えを返す粋な人もいるかもしれないが…。

 

この例からもわかるように、「わかる」ということは、説明ができることだと思う。

人に説明するというのは、とても難しいことだ。

色々と例えを使ったり、図を描いたり、工夫をしても上手く伝わらないことは多い。

わかったつもりでも、説明をしてみると理解不足がたちまち露呈するものだ。

 

昨日から、とある国家資格の試験勉強を始めた。

そこそこ難易度の高い試験なので、大学の定期試験のような問題が出てくる。

大学時代はそれなりに勉強もしていたし…と安易に考えていたのだが。

見事に、さっぱり、忘れていた。

あんなに覚えていた物理の法則も、問題の解き方も、何も残っていなかった。

正直に言ってかなりショックである。

ちゃんと理解して覚えていれば、まだもう少し記憶が残っていたのかもしれない。

その場で理解したつもりになっていても、半端な知識は容赦なく風化する。

人間の記憶なんて所詮この程度か…と黄昏てしまった。

 

そんなことがあったので、今日はこのテーマについて書くことにした。

世の中、説明のつかないことはたくさんある。

特に人の感情が絡むと、説明のつくことの方が少ない。

その点、物理は理屈で説明できる分簡単かもしれない。

 

もうしばらく、回路図は見たくない。